2010年1月25日月曜日

AVATAR


本格3D映画として大ヒットしているジェームズ・キャメロン監督の最新作「AVATAR」をを観てきた。

”ここではないどこかへ。自分ではない誰かに。”

その命題が重層的に重なるこの映画。世間でいうほど、ただの3D映画だとは思わなかった。

新天地を求めた文明人が未開の地に魅せられていく物語。それは大航海時代、そして植民地建設、帝国主義の時代において文明の先兵ともなった。

一方で”ここではないどこかへ。自分ではない誰かに。”という命題は人々をフィクションへ駆り立てる。そのフィクションは、よりリアルな体感を求めて、自らを仮想現実に投影し体験する世界に広がっていく。

「AVATAR」で描かれる世界では、現実に存在する異星人の身体AVATARに意識を投下、操作することにができる。それは言わば仮想現実の自分が現実の自分と同居しているということ。一方でその奇妙な同居は未開の惑星パンドラという、地球とはかけ離れた巨木に覆われた世界に限定されている。そして仮想現実パンドラの自分は地球の現実では得る事のできなかった世界との一体感を現実のものとして体験できる。

”ここではないどこかへ。自分ではない誰かに。”という命題は仮想現実の枠を保ちつつも、その枠を壊すことなくパンドラでは越えることができる。それは言わば”体感できる完璧なフィクション”と言えないだろうか。

しかし、AVATARを生み出した文明にとっては未開社会に浸透するための道具にそれはすぎない。望むと望まざるとに関わらず、文明の先兵として未開の地を浸食していく。”体感できる完璧なフィクション”は文明と未開の相克の世界に引っ張りだされてしまうのだ。

ジェームズ・キャメロンが世界初の本格3D映画として「AVATAR」を作った意味はここにあると思う。新たな表現手段としての3D映画の目指す所が”体感できる完璧なフィクション”をにあるのだとしたら、彼はフィクションとは何かを認識させた上で、新しい表現の世界に我々を招いたのでは無いだろうか。

I will "try" to write this entry in English.....

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